死んだはずの男が帰ってきた。村人たちは男の言葉を信じ、村を捨てたが――。 7時間18分、一瞬の無駄もない、濃厚な映画体験。

ワンカットも無駄のない超長編

7時間18分という長尺。2回の途中休憩があるとはいえ、一瞬たじろぐ。だが、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(2000)のタル・ベーラが、同作の6年前に、4年もの歳月をかけて完成させたという大作だ。見逃すわけにはいかない。

冒頭シーンは、片田舎の小さな農場。朝まだき。何頭もの畜牛がのそりのそりと歩いている。人影はない。画面には延々と牛ばかりが映し出される。カットを割らないワンショット・ワンシークエンス。ああ、「ヴェルクマイスター」のスタイルだなと思う。

単調な場面が続くのに退屈しないのは、フィルムで撮られたモノクロ映像の迫力と美しさゆえか。「ヴェルクマイスター」同様、カメラは名手メドヴィジ・ガーボル。本作でも、卓越した撮影術で目を酔わせる。

農場に続くショットが映し出すのは、一晩ベッドをともにし、目覚めた男女。その家の主人であるシュミットの妻と、フタキという間男だ。戻ってきた夫の気配に、フタキはそそくさと逃げ出す。

外から夫婦の会話を盗み聞きしたフタキは、シュミットがクラーネルという男とつるんで、住民の貯金を持ち逃げしようと計画していることを知る。

村人はみな困窮している。やがて長雨のシーズンが訪れると、町への道は閉ざされ、経済活動はストップする。不安と憂鬱が村を覆っている。見えない先行きに耐えきれず、不届きな考えを起こす者がいても、おかしくはない。

折しも、死んだと思われたイリミアーシュとペトリナが突然、村に帰還するとの噂が流れる。彼らは、何かしらの違法行為で警察に捕らえられたが、ある取り引きによって釈放されたようだ。

後半になって村人たちの前に現れるイリミアーシュは、困窮する村人に対し、新天地で未来を築こうと、荘園計画への参加を呼び掛ける。不安をあおりながら欲望を刺激する巧みなアジ演説は、村人たちを丸め込み、集団移動が始まるのだが――。

実際は、これほどスムーズに物語が進行するわけではない。兄に搾取され、誰にも相手にされない知恵遅れの少女が、唯一自分より弱い生き物である猫を虐待死させ、自らも命を絶つエピソード。酒場に集まり、いつ終わるともなく踊り狂う村人たちの酔態、醜態を、飽くことなく見せ続けるシークエンス……。

随所に大小さまざまな枝葉が広がり、この映画の骨格を見えにくくしている。しかし、それこそが本作の魅力であり、凄みでもあるのだ。

直線的に前進するのではなく、行きつ戻りつしながら、たっぷり時間をかけて、映画は村人の運命を見つめていく。クロースアップでとらえられた村人たちの表情は、百万言を費やすよりも雄弁に彼らの感情を伝える。

そんな村人たちと距離を取り、大酒を食らいながらも、冷静に彼らの動向を記録している人物がいる。シュミット家の真向かいに住む医師だ。

上述したフタキの行動も、医師は観察した事実に分析を加え、ノートに記していた。映画は、この医師の目から、フタキの行動をもう一度、窓外の遠景として反復して見せる。

視点を変えて、同じ出来事を語り直すという手法は、本作の顕著な特徴だ。
知恵遅れの少女が、酒場の外から窓を通して中の様子を覗き見るシーンがある。これは短い場面だが、後に、少女が目撃した光景は、酒場の内部から、ふんだんに時間を使って映し出される。

どのシーン=ショットをとっても秀逸だが、中でも、道を歩くイリミアーシュとペトリナを、強風に飛ばされた木の葉やゴミが追いかけていく映像は圧巻だ。終盤の思いがけない種明かしから、一気に暗転するエンディングまでの、スリリングかつ幻惑的な流れも素晴らしい。

これだけの長編でありながら寸秒たりとも目を離すことを許さない、タル・ベーラ監督。その魔術的演出を堪能せよ。

『サタンタンゴ』(1994、ハンガリー/ドイツ/スイス)

監督:タル・ベーラ
出演:ヴィーグ・ミハーイ、ホルヴァート・プチ、デルジ・ヤーノシュ、セーケイ・B・ミクローシュ、ボーク・エリカ、ペーター・ベルリンク

2019年9月13日(金)より、シアター・イメージフォーラム、ヒューマントラストシネマ有楽町他全国ロードショー。

公式サイト:http://www.bitters.co.jp/satantango/