父と娘の破格な愛の物語
※公開中の「落下の解剖学」でヒロイン役を演じたザンドラ・ヒュラーの主演作「ありがとう、トニ・エルドマン」(2016)公開時に書いたレビューを、一部加筆した上で掲載します。
トニ・エルドマンとは、本作の主人公であるヴィンフリートが創造したもう一つの人格である。学校の音楽教師をリタイアし、時間を持て余しているらしいヴィンフリートは、気が向くと入れ歯やカツラで変装し、トニ・エルドマンと名乗っては、悦に入っている。
そんなヴィンフリートにとって、気がかりなのは娘のイネスのことだ。コンサルティング会社に勤めるイネスは、ルーマニアのブカレストに赴任し、朝から夜まで働き詰め。
たまにドイツの実家に帰ってきても、ケータイで仕事の打ち合わせばかりしている。結局、ろくに会話もしないまま、ブカレストに戻ってしまう。
イネスが心配でたまらないヴィンフリートは、はるばるブカレストまで彼女に会いに行く。驚くイネスだったが、仕事に忙殺され、父にかまっている暇などない。
だが、あまり冷たくするのも気の毒に思ったか、イネスは財界人が集まる大使館でのレセプションに父を招く。ヴィンフリートは、取引先の役員を怒らせて落ち込む娘の姿に、彼女の仕事の過酷さを垣間見る。
企画、プレゼン、接待と、休む間もなくスケジュールをこなしていくイネス。そんなイネスの前に、ヴィンフリートはトニ・エルドマンの姿で現れるようになる。同僚との食事会、上司と口論している屋上、ボーイフレンドと楽しんでいるパーティ…。
まさに神出鬼没。ごく日常的な風景の中に、突如として姿を現す異形の中年男。ビジネスでキャリアを積み上げるために、毎日必死で頑張っているイネスにとっては、迷惑この上ない存在のはずだ。
しかし、イネスは父=トニ・エルドマンを決して遠ざけようとはしない。彼の行動が、意地悪や悪ふざけなどではなく、自分を気遣ってのことだと分かっているからだ。
イネスは、いつのまにかトニ・エルドマンに癒され、影響されていく。手堅く、そつなく、常識的に。そんな今までの生き方を彼女はかなぐり捨てる。
ヴィンフリートの娘ではなく、トニ・エルドマンの娘へ。その気になれば、自分も変身できる。イネスは覚醒するのだ。
リアルとシュールの絶妙なバランス、完結させずにプツリと切ってみせるラストなど、全編に監督の非凡なセンスが光る秀作。
カイエ・デュ・シネマ誌、スクリーン・インターナショナル誌など、世界の名だたる映画誌が年間ベスト1に選んだのも頷ける。
ありがとう、トニ・エルドマン
2016、ドイツ/オーストリア
監督:マーレン・アデ
出演:ペーター・ジモニシェック、ザンドラ・ヒュラー
公式サイト:https://www.bitters.co.jp/tonierdmann/
コピーライト:© Komplizen Film
配給:ビターズ・エンド