トランスジェンダー女性が感じる、違和感と居心地の悪さ。それは、普遍的な感情であり、誰もが共有できるものだ。

トランス女性のリアルな感情

のっけから個人的な話で恐縮だが、トランスジェンダー(体の性と心の性とが一致しないこと)の要素が自分には全くない。友人や家族にもそのカテゴリーに属する人物は見当たらない。トランスジェンダー以外のLGBQについても、同様である。

ただ、現実には日本人の3~10%がLGBTQのいずれかに該当するらしいので、気が付かないだけかもしれない。

いずれにせよ、困惑するのは、LGBTQにあたる人物が出てくる映画を見るときである。コメディなどで道化た役柄で出てくるようなケースは別だが、シリアスな恋愛を描いた作品の場合、それがいかに秀作、傑作であろうと、当該人物に感情移入することができないのである。

自分の心にはさまざまな要素が潜んでいる。正義感、差別心、同情心、憎悪、嫉妬、優越感、劣等感……。だから、どんな映画を見ても、ほぼすべての登場人物に共感することができる。

唯一、感情移入できないのが、LGBTQの人々の恋愛に関する部分なのである。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、フランソワ・オゾン、グザヴィエ・ドラン、たとえ大好きな監督の作品であろうと、同じだ。

だから、この映画「片袖の魚」を見るにあたっては、少しばかり不安があった。主人公に共感できないまま、置いてきぼりを食らうのではないか? 主人公に寄り添えず自己嫌悪に陥るのではないか?

杞憂だった。トランスジェンダー女性(体は男性で心は女性)の物語であるが、表現されているのは、少数者である彼女が多数者の中で感じる、違和感と居心地の悪さなのだった。

それは普遍的な感情であり、誰もが共有できるものである。ヒロインのひかりが理解者や友人のそばを離れたときに覚える漠とした不安は、たとえば初めて欧州へ一人旅したとき、ある瞬間にそこで唯一のアジア人となったときの居心地悪さと似ているように思う。

久しぶりに再会した高校時代の同級生が、ひかりの外見に戸惑いつつも、動揺を押し隠し、平静を装う。その残酷なやさしさに傷つくひかりの姿は、場違いな言動により大失態を演じた自分をあざ笑う代わりに、見て見ぬふりをするという、屈辱的な反応に打ちのめされた過去の自分を思い出させる。

生きにくいのはトランスジェンダーなどLGBTQの人々だけではない。性的ではないレベルでも多くの人が少数者たる息苦しさを感じながら生きている。それを、ある意味、分かりやすい形で示しているのが、ひかりのような人々なのだろう。

演じているのは、ファッションモデルのイシヅカユウ。トランスジェンダー当事者である。

冒頭に書いたことを補完しようというわけではないが、シスジェンダー(体の性と心の性とが一致)がトランスジェンダーを演じることには限界があると思う。分からない感情を分かったふりで演じても、見巧者の目はごまかせないからだ。

その点、本作では本物のトランスジェンダーであるイシヅカユウがヒロインを演じることで、ごまかしのないリアリティが生まれ、映画に迫力を与えている。それはトランスジェンダーであるかどうかを問わず、見る者の心を強く揺さぶり、ヒロインの感情が誰にも共通する普遍的感情なのだということを知らしめてくれる。

『片袖の魚』(2021、日本)

監督:東海林毅

出演:イシヅカユウ、広畑りか、黒住尚生、猪狩ともか、原日出子

2021年7月10日(土)より、新宿K’s cinema他全国ロードショー。

公式サイト:https://redfish.jp

コピーライト:©2021みのむしフィルム