リセットして人生をやり直す
「人間蒸発」という映画があった。今村昌平による疑似ドキュメンタリー作品で、1967年に公開され、評判を呼んだ。
要するに、かなり前から日本では、失踪することを蒸発と比喩的に表現してきた歴史がある。熱せられた水が、ジュッと気化するように、忽然と姿をくらます社会現象。

もちろん失踪自体は世界中どこでもある。だが、それを蒸発と呼んだのは日本人だけだったらしい。まるで忍者のように瞬時に姿を消してしまう日本人。そんなイメージを抱いたのかどうか。今世紀に入り、欧米で日本の蒸発に対する関心が高まる。

本作も、そんな流れの中で作られたドキュメンタリーと言えそうだ。「人間蒸発」のように一人の失踪者周辺に焦点を絞るのではなく、何人かの失踪者と、彼らを手助けする夜逃げ屋、失踪者を探す家族と私立探偵――複数の人物がバラバラに独立して登場する。

空き缶の回収をしながら大阪の西成で暮らす男性は、ヤクザと縁を切るため家族を残し蒸発した。放蕩生活の果てに辿り着いたのが、釜ヶ崎のドヤ街だった。
借金の取り立て屋から逃れるため、家族を残し、ひとり東京で生活する藤本(仮名)は、世話になった夜逃げ屋の女性・広田(仮名)の仕事を手伝っている。

ブラック企業で働くストレスに耐えられず逃げ出したカップルは、海岸近くのラブホテルに住み込みで働いている。どこかに家を見つけ新生活をスタートするのが夢だ。
勤務先の寮から逃げ出した息子の捜索をシングルマザーの女性から依頼された探偵は、息子が向かったかもしれない実父の居場所をめざす。

映画は、一つのケースを深追いすることなく、ケースとケースの間を何度も場面を切り換えながら進行していく。
映画が進むにつれ、失踪者たちは警戒心を解き、真情を吐露していく。失踪の理由、将来の人生設計、家族への思い…。夜逃げ屋の広田自身も、自らの心の闇を語り始める。隠された真相や真実に迫るのがドキュメンタリーの使命だとすれば、本作は見事にそれを果たし得ているのではないか。

失踪中の人々であるから、顔出しは禁物。しかし、本作はアングルによってはボカしたままだが、基本的には素顔が映し出されている。心理を伝えるには表情が不可欠との考えから、AIを用いて偽の顔にすげ替えられているのだ。
顔出しされているが、本物ではない。だが表情は本物。そんな種明かしをされるとやや複雑な気分になるが、ボカシをかけられない分、リアリティは増しているのだろう。

全編を見終えて感じたのは、登場する人々が皆、いたって健全な精神の持ち主だということだ。苦痛に満ちた状況、耐えられない環境に置かれて、そこから逃げ出さずにいることこそが異常なのではないか。

何も世の中から消えてしまいたいわけではない。安全で安心できる場所があれば、そこで暮らしたい。どの人物もそう思っている。失踪するのは一時的に避難しているだけなのだ。
蒸発とは永遠に消えることではない。再び人生をやり直すためのリセット作業なのだ。本作に登場する人たちを見てそう思った。
蒸発
2024、ドイツ/日本
監督:アンドレアス・ハートマン & 森あらた
公開情報: 2026年3月14日 土曜日 より、ユーロスペース他 全国ロードショー
公式サイト:https://aggie-films.jp/jht
コピーライト:© 2024 OSSA FILM, BR, MORI FILM
配給:アギィ
